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ティムール朝末期の君主スルタン・フサイン・バイカラーを推してます(2回目)

彼はアブー・サイード死後のどさくさに紛れてヘラートを奪取し、ヘラート政権の君主となった人物です。(1468ごろ)

この当時ティムール朝は末期も末期で、各地で王子は反乱起こすわウズベクは突っ込んでくるわと大変な状況です。

バイカラーはなんとかそれらに対処し、都ヘラートは文化が栄える素晴らしい都市となりました(まとめ)

もちろん彼の死(1506)後にすぐに帝国は滅亡するんですがね…

そんなバイカラーには「弁明(Apologia)」という著作があります。こちらから見れます(英語)。

タイトルからして自省録的なのを想像していたのですが、実際は終始ミサワ顔でした。うっぜ。

構成は 神への感謝→君主としてのあるべき姿→ヘラートの繁栄自慢→ナヴォーイー語り です。

このナヴォーイーという人物、本名をミール・アリー・シールといいます。

「ナヴォーイー」は雅号で、詩人としてチャガタイ・トルコ詩を多く残す他、政治家・パトロンとしても活躍しました。バイカラーとは幼いころからの親友で、途中仲違いを起こしながらも、生涯にわたりバイカラーを公私共に支え続けた人物です。

そのナヴォーイー自慢で弁明の3分の1以上が占拠されていました。

これは訳すしかないだろ。というわけで全く弁明してないバイカラー君の弁明、後半部分を訳したので雰囲気だけでも味わっていただければと思います。

 

※注意点※

・修辞法が煩雑すぎて、また私の英語力の欠如から、意訳したり飛ばしたりした部分が多々あります。

・詩は省略しました。(後で追加するかもしれません)

・直訳調でめっちゃ読みにくいです。

・上の理由から、あくまで雰囲気を味わうくらいのノリで読んで頂けるとうれしいです。

・とりあえず不明な点があれば上の英語原文を読みましょう!(投げ)

・[]内は私による補足です。

 

 

 

以下、リンク4ページ一列目31行目から

*     *     *

他にも、言語の美の天頂におけるカノープスのように輝く詩人や、詩句の力強い表現と巧妙な韻文で知られる詩人がいる。天は、このような詩人たちをかつて創ったことはなく、現在、[ヘラートを除く]世界のどの場所においても彼らに比肩する人々はいない。

才能に溢れ、その才能を認められているたくさんの詩人が思い起こされ、また言及されるヘラート近郊(神が荒廃からお守りくださっているのであろう)では、詩歌の紐で言語の真珠を繋いだり、言語の宝石を磨きいっそう輝かせる職業に就いている1000人近い詩人たちがいる。

1000人のうちにそのような人々が10人もいるような時代は他にはなく、また、100人のうち1人いるような場所も他にはない。

その名に言及されたり叙述されたりする詩人たちは、ペルシア詩の宴に列し、ペルシア語の海で泳ぐ能力を誇示してきた。

しかし、今日までトルコ語の衣服を身にまとった人物は存在せず、そのような衣服の欠如によって、トルコ語の天使のような美は、私の臣下で従者の1人、クカルタシュリク(乳兄弟)の階級まで到達した人物、忠実な奉仕の道を通して交際の財産を積み上げ、閉ざされた空間における神聖な聖霊のような私の親友であり、夜の談話の秘密の共有者、真実を語る上では非常に大胆な人物――私が指しているのはミール・アリー・シール、その”ナヴォーイー”という雅号で知られ、その詩の中に彼の雅号が暗示されている――であるが、彼が現れたこの幸運な時代まで明らかになってこなかったのである。

彼はその救世主のごとき息をもって、死体と化していたトルコ語に命を吹き込んだ。
彼は、トルコ語の縦糸と横糸で織られ、絹地に刺繍が施された、蘇ったトルコ語の衣服に袖を通した。
彼の春のような詩才から生まれる詩歌のように落ちる雨粒で、様々な色の薔薇が詩の庭に咲き誇り、彼の心の雲から落ちる雫で、詩歌の海に様々な色の真珠が散らばっている。
彼がその馬で乗り入れたどの詩の競技場においても、彼はそのペンの剣をもって、服従に至らしめた。

言葉は彼の作品を描写するのには不十分である。私は、私が話した題から彼が作ったマスナヴィーのひとつからいくつかの詩を思い出した。それらは次の通りである。

<詩>

これらの詩が彼の詩才から生まれたとき、人々は誇張で尊大だと考えた。しかし、この幸運な時代、そしてこの永遠に繁栄していく国家のもとで、彼は詩集に着手し、完成させるために熱心に取り組んだ。

ニザーミーは誰もが認める詩歌の名手であるが、彼が詩を完成させるのに30年かかったことはよく知られている。また、ミール・ホスローは3万の詩を1万8千にまで縮めたことで知られるが、完成までには6~7年を要した。

しかしこの修辞法の競技場の王者、また修辞の密林の君主は、多くの話の中に愉快な解釈や魅力的な改良を施したにも関わらず、仕事の始まりから作品を完成させるまでに2年もかからなかったのである。

もし誰かが、実際に彼が製作に費やした時間を計算したら、6ヶ月もかかっていないだろう。

また、彼の詩を熟読した者は、彼の物語の多様性、韻文の魔術、後世の力強さ、そしてその真意の巧妙さを理解するであろう。
彼は、マスナヴィー体だけでなく、かつて試みられ、あるいは記録されてきたアラブの中の韻文とペルシアの中の甘美を備えた全ての詩体で、「目録」の中で言及されている彼の詩集の説明を書いた。
私が詩集を誦んだだろうか?神がお許しにならないだろう!それは純粋な言葉の真珠に溢れた小箱であり、純潔な意味の星が散りばめられた天の1ページである。

<詩>

彼の詩のどの一節が恋人たちの魂に火を投じなかったことがあろうか?彼の詩のどの引喩が別離の悲しみをいっそう激しくしなかったことがあろうか?彼の詩のどの半行[韻文の用語]が別離に苦しむ人々に涙の激流を起こさなかったことがあろうか?詩の王国において、彼が達した強大な要塞の中でその門を開かなかったものがあろうか?

現在、彼は詩歌の世界の王であり、その世界を征服した者として、sahib-qiranと呼ばれているのにふさわしい。

<詩>

この国のこの時代に、このような素晴らしい作品と驚嘆すべき詩歌で知られる詩人が現れたこと、そして神が彼をこの神聖な宮廷の臣下として、天使のような賞賛者の長としたことも、私の神への大いなる感謝の理由のひとつである。

<詩>

[終]

 

 

*     *     *

 

何よりも修辞がやばいですね。あと全体的に恥ずかしいですね。書き写しててむずむずしました。

この二人のエピソードは「ムガル皇帝歴代誌」、「中央アジア歴史群像」に詳しく載っていますのでぜひそちらもご覧ください。

へぼい訳ですみませんでした(土下座)

お久しぶりです。本当にお久しぶりです。放置していてすみません。

さてタイトルですが、3月に私用でウズベキスタンに行って参りました。

というわけでその報告をぼちぼちしていこうかなと考えているのですが、もちろん普通のウズベキスタン旅行記はごろごろしているわけです。

ここは仮にも世界史ブログなので、世界史オタクによる世界史オタクのための記事を書いていこうと思います~。

 

今回紹介するのは、首都タシケントにあるティムール博物館です。

ティムール朝の成立から歴史までを展示物を使いつつ解説している博物館で、内装も豪華です。

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まず入るとこれ。ティムールを中央に配置し、歴代君主が囲むというヒーロー大集合図。

 

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そのまわりには歴代君主の立ち図(キメ顔)が並んでいます。わあ!!アブー・サイード(バーブル祖父)だ!!!

 

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安定のイケメン、16世紀のアイドル、バーブル氏

そう、このゾーンではお気に入りの君主と2ショット撮り放題なのである(私はバーブルと撮りました)

 

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2階に上がるとこんな図が。そう、ティムール朝の家系図である。こまかい。ムガルまで入ってるんだから手に負えない。同じ名前多すぎ。

そんな悩みを先日ツイッターで呟いたところ、なんと!!

Orbit!!のかすてらさんが解読しpdfにおこしてくれました!!!すごい!!!

これがその記事です。ほんとうに凄すぎるのでぜひ見てください(宣伝)

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学者(あえて為政者とは言わない)のウルグ・ベク・タラガイちゃんもいます。

先ほどからすでにお察しのことと思いますが、この博物館、細密画とかの本物がほとんどないです。

ちょっとした生活用品やらコインやらはありましたが、残念ながら細密画(このブログ的に重要)の本物は欧米にあります。残念。

 

??????????????????????????????? おっ・・・?これはタージマハル・・・? ほかのティムール朝建築のミニチュアの中に紛れて置いてありました。 彼らにしてみればバーブルのムガル帝国は後ティムール朝みたいなもんだからね。 ???????????????????????????????

私の最近の一押しのスルタン・フサイン・バイカラーです。ティムール朝実質最後の君主です。

写真には載っていませんが彼の友人で政治家・詩人・パトロンのアリー・シール・ナヴォーイーも激押しでした。

 

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天井の装飾も凝ってました~。きれい。

 

旅行記シリーズはできれば続けていきたいと思います。

気長にお待ちください…。

 

写本②

このカテゴリの更新も久々ですね。下書き自体は何ヶ月か前に書いたものなので内容とか全く覚えてません。やっべ。

引き続き、タフマースプ1世時代に作られた写本についてです。

2.Khamseh/ハムセ(五部作)

<物語について>
作:ニザーミー,13c成立 編纂時期:1539~1543

詩人ニザーミーによるロマンス叙事詩。マスナヴィー詩形(ペルシア詩の形式の1つ)を用い、5つの物語で構成される。

『神秘の宝庫』 神秘主義的教訓詩。アナトリア東部エルズィンジャンの君主、マングージャク朝のバフラームシャー・ブン・ダーウードに献呈された。1176年頃作詩。

『ホスローとシーリーン』 ササン朝の王ホスロー2世とアナトリアの王女シーリーンの悲恋を描いたロマンス叙事詩。ペルシア詩の最高傑作のひとつとも。アーザルバーイジャーン地方一帯を治めたアタベク政権エルデニズ朝の当主ジャハーン・パフラヴァーンとクズル・アルスラーン兄弟およびセルジューク朝最後の君主トゥグリル3世に捧げる讃辞が詠まれている。1177年から1181年の間に完成した。

『ライラーとマジュヌーン』 アラビア半島のベドウィンの若い男女の悲恋を描いたロマンス叙事詩。(ベドウィンの資料が無く作者は苦労したらしい)高名な頌詩詩人ハーカーニーの庇護者であったシルヴァーン・シャー朝の君主アフサターンの依頼に応じて作詩された。1181年作詩。

『七人像/七王妃物語』 ササン朝君主バフラーム5世に嫁いできたペルシア・ルーム・中国・マグリブ・インド・ホラズム・スラブ出身の7人の王妃が、出身地に伝わる伝説や民話を語る千夜一夜物語のような話。ニザーミーがこの詩を捧げた「スライマーン」とは、マラーゲのアタベク政権アフマディール朝の君主アラーウッディーン・クルプ・アルスラーンのことであると考えられる。

『アレクサンダーの書』 イスカンダル・ズルカルナインことマケドニアのアレクサンドロス3世の生涯を描いた叙事詩。2編に分かれており、『栄誉の書』で諸国征服の様子を、『幸運の書』で預言者、哲学者としてのアレクサンドロスを描く。1200年から死の直前までに完成した。

『ホスローとシーリーン』『ライラーとマジュヌーン』『七人像』は平凡社東洋文庫にて翻訳が出ています。ホスローとシーリーンはこじれにこじれていてあらすじだけでウハァ…となったので、読んだ方感想ください(投げやり)

<写本について>

編纂時期が1539年からということで、シャー・ナーメ写本(前回記事参照)の編纂終了後に作り始めたと考えられる。
パトロンである当時のシャー、タフマースプ1世は25歳。スルタン・ムハンマド、アーガー・ミーラク、ミール・サイイッド・アリー、ミールザー・アリー(スルタン・ムハンマドの息子)、ムザッファル・アリーなどの画家たちによって描かれた。シャー・ナーメより均一的。

シャー・ナーメから引き続き宮廷画院のベストメンバーで描かれたのだろうと思われます。こちらも負けず劣らず素晴らしい作品。 ちなみにミール・サイイッド・アリーは、後にインドから逃げてきていたムガル皇帝・フマーユーンについていきカブールで活動することとなります。というのも、ハムセ編纂後からパトロンであるタフマースプ1世が細密画への情熱を以前ほど持てなくなるからなのですが、その話はそのうち書こうと思います…

ではそんなハムセから1枚。

‘Khusrau Listening to Barbad Playing the Lute’, from a Khamseh of Nizami, ascribed to Mirza ‘Ali, Tabriz, dated 1539-43

前述したスルタン・ムハンマドの息子、ミールザー・アリーの作と言われているもの。スキャンなので画質はご容赦ください。
私が個人的に一番気に入っている絵です。色彩が本当にきれい!当時の宮廷の様子もよく分かる作品。

ところで最近ティムール朝を調べてたらそっち方面にも手を出したくなった。きりがない。そして資料が少ない。

お久しぶりです。久しぶりの更新は読書メモからになります。

今回読んだ本は題のとおり「暗殺者教国 イスラム異端派の歴史」です。

背表紙が黒地に白文字という素敵仕様で、ついつい手に取りたくなってしまいますね(はぁと

さて、内容は俗に言う「暗殺教団」ことニザリ・イスマイリ教団の歴史であります。ニザリ派はシーア派の中のイスマイル派からさらに分派したもので、ハサン=イ=サバーが11世紀に開きました。

スンナ派シーア派両方から異端として弾圧されますが、それに対し要人の暗殺という方法で対抗し(普通に戦争したりもしてますが)セルジューク朝も退け一大勢力となります。

そして中盤からフラグのラスボス感が漂い始め、何故かモンゴル将軍キドブハかっこいい!1!1!!1トークが始まる謎仕様

⇒どうやら筆者の専門はモンゴル史だったようだ な、なんだってー

そんな感じで、ニザリ派の形成から崩壊までの歴史を事細かに書いている一方、筆者があとがきで「キドブハ萌えから書き始めたらいつの間にかニザリ教団の歴史書いてた(意訳)」と仰っていて面白いです かなり読みやすい本だと思いますのでぜひ。

あと小ネタとしては、

・サラディンが暗殺教団に依頼してたという噂があるっぽい(しかも当時から言われていたとか…?情報ありがとうございます)

・フィリップ2世がリチャード暗殺しないでよって頼んだとか

・フラグに頼んで天文台建設やら図書館の蔵書保護とかやってもらってる学者さんsが可愛い

写本①

今回は、サファヴィー朝写本芸術の最盛期に作られた主な写本と物語について簡単に解説しようと思います。

物語の解説に使用した参考文献は、たまたま図書館で見つけた『ペルシアの詩人たち』(オリエント選書、1980)です。古い本ですが、ざっと基礎知識は頭に入るのではないかと思います。

1.王書/シャー・ナーメ(Shahnameh)  作:フィルドゥスィー  写本編纂時期:1522?~1535?

<物語について>

ペルシア文学の中でも最も有名な長編民族叙事詩。イラン民族固有の伝説を基礎とし、天地創造からササン朝滅亡に至るまでのイラン歴代の王者や英雄の事跡を、純粋なペルシア語をもってうたいあげた。ゾロアスター教的善悪二元論・宿命論・運命論的性格が強い。(参考:ブリタニカ)

これは岩波文庫版(訳:岡田恵美子)を読みました。残念ながら尺の関係で伝説時代~英雄時代までしか載っていませんが、詩から文章へ書き下してくれているので読みやすいです。

フィルドゥスィーがアラブ人とペルシア人の違いを強調しようとしたのは明白で、「アラブ人は四角い石(カーバ神殿)に向かって祈るけど、我々イラン人は昔は火に向かって祈ってたんだよね~」なんてことも書いてます。

イスラム教徒なのにゾロアスター教に嫌悪感を抱いている感じもまったくしません。「みんな死ぬのに現世に執着しちゃいかんよね」とか「残酷だけど運命だから受け入れなきゃね」とか割と日本人なら納得できるような世界観でもあるので興味深いです。

しかし、イラン人の心を掴むっぽいロスタムとソホラーブの話なんか納得できない。

<写本について>

スルタン・ムハンマドを編纂責任者として、イスマーイール時代から作られタフマースプに献上されたもの。およそ280枚の絵が収められ、”Shah Tahmasp’s Shahnameh”として知られる。サファヴィー朝時代の写本芸術の最高傑作との誉れ高い。

ペルシア細密画といえばこれ抜きでは語れない、ってほど凄い作品。欲しい!と思ったあなた(私ですが)朗報です。なんと書籍化しています。

それがこれ(デラックスエディションもあるよ) アマゾンで買える!!そして安定のメトロポリタン美術館!!ちなみに私は神保町の某古本屋で見つけました。原価16,000のところがプレミアついて4万超えてた。

大きさ(かなりでかい)と値段で買えず、悔しさから背表紙を撫で撫でしてしまって友人にドン引きされました いつか買う。

そんな王書から1枚紹介します。でかくて申し訳ないです。

“The Feast of Sadeh”(サデの祝宴) 伝スルタン・ムハンマド画 1520-22頃

イラン伝説の王・フーシャングが火を発見し、その夜廷臣と動物たちを集めて火に潜在する力について講釈している様子を描いたもの。写本中でも最も壮麗な一枚。

この写本の絵はネット上でもたくさん見られます。興味を持った方はここがおすすめ→メトロポリタン美術館HP

タブリーズ組

ヘラート出身の巨匠ベフザードには弟子がいっぱいいました。

その弟子や、ベフザードの画風に影響を受けた画家たちが将来サファヴィー朝の宮廷画院で「写本の最高傑作」を作る主力メンバーとなっていきます。
今回は15世紀前半~1550s(イスマーイール~タフマースプ時代)までの主要な画家たちを紹介します。

スルタン・ムハンマド/Sultan Mohammad
べへザードの後を継ぎ、宮廷図書館長となる。写本”Shah Tahmasp’s Shahnameh”(王書)の編纂責任者。1520~30s頃活躍。画院の中では古株で、絵画だけでなく染織などにも多大な影響を与えた。構成が緻密で、中国絵画の影響も受けていることが分かる。
彼はイスマ末期~タフマ前期の時代にかけて活躍した画家であり、シャーの画院でも傑出した能力で知られたそう。 代表作は以下の2枚。

Court of Gayumars (Shah Tahmasp’s Shahnameh)伝スルタン・ムハンマド画
幻想的な岩の描き方や、雲の描き方などから中国絵画の影響を受けていることが分かると思います。とにかく緻密!細かい!
絵は王書の一場面を描いており、中央上には伝説上のイーラーン最初の王・カユーマルスが座り、左側には孫で2代目を継ぐことになるフーシャングが立っています。

The ascent of Muhammad to heaven (Khamseh) 伝スルタン・ムハンマド画

ムハンマドが天国へ昇天していく様子を描いたもの。『ハムセ』写本からきています。ハムセって何かな~とぐぐってみたところ「約30,000の対句(バイト bayt)から成るマスナヴィー詩形の五部作」 なるほどわからん

ちなみにいくつかのソースには「スルタン・ムハンマドはアーガー・ミーラクの弟子」と書いてありますが、スルタン・ムハンマドの活躍時期のほうがアーガーより早いこと、また師を差し置いて宮廷図書館長になるのは疑問があることから師弟関係が逆ではないかと思います。(個人的な意見ですが…)

Aqa Mirak/アーガー・ミーラク

タブリーズ派の主要画家。1530s~50s頃活躍。イスファハーン出身で、べへザードの弟子。師の画風の影響を強く受けているがより装飾的。彼や同時期に活躍したMirza  Ali, Muzaffar Ali はスルタン・ムハンマドら前世代と違い、豊かな色彩と人物描写の細かさで知られる。『王書』『ハムセ』写本の製作に関わっているはずだが、いまいち分かっていないらしい。1550sに製作開始されたFalnameh写本の責任者。

タフマースプ1世の信頼があつく、非常に親しい友だったとされる。タフマースプが細密画への情熱を失った1550年代以降も宮廷に留まり、宮廷の重要職に任命されつつ写本製作リーダーやってたりする忙しい人。(もしかしたらそういう関係だったかもねっていう説もあるよ)(というか最初親友だったって聞いたとき、タフマに友達いたことに驚愕した

代表作を紹介したいところなんですが、どうやら彼はサインを全く残していないらしく後世の推定になります。

Prince Reclining ca. 1530 Aqa Mirak, Safavid period

王族の子弟がクッションにもたれかかって読書をしている様子を描いたもの。なんつーか、美少年ですね(迫真)

1530辺りということで、シャーもしくは弟のいずれかがモデルでしょう。夢が広がりますね(黙れ)

ちなみにこのような肖像画のようなものは1530~40年ごろたくさん描かれたようです。高貴な生まれの美しい若者がモデルとなったとか。

次回は写本の説明をしようかと思っております!画像多いと楽しいですね!

名前について(お詫び)

そういえば別な場で書いた人名表記に誤りがありましたのでこの場でお詫びします…。

Alqas mirza →×アルカス ○アルガース・ミールザー

Sam mirza →×サム ○サーム・ミールザー

の方が現地発音に近いのではないかな。

よくあることだと思いますが、アルファベットだとどこを伸ばせばいいのかわからんっていう。

サファヴィー朝の部族名も同様で訳せねえ―――とよくなります。結局は本やら論文やらを参考にするしかないわけですよねー。

その点Encyclopedia Irania は記号で大体分かるのでありがたいです。マイナー人名までよくカバーしてくれていて素晴らしいサイトです(宣伝)

時代はサファヴィー朝に移ります。先だって紹介した本(the great age of persian art)の作者はどうやらタフマースプの大ファンらしく、イスマーイールの記事を読んでいるはずなのにショタタフマ君が随所に現れます。俺得。

それはさておき、サファヴィー朝の細密画史を私なりに分けてみます。

1 イスマーイール期 ヘラートからの技術移転

2 タフマースプ期 最盛期

(3 停滞期) 絵画どころではない

4 アッバース期 なんか個性的になってきた

5 それ以後 段々西洋画の影響が増し写実的に

私はてっきりアッバース期が全盛なんじゃね?レザー・アッバースィーとかいるし??と思っていたのですが、どうやらそうではないみたいです。

アッバース期は大帝の庇護の下で文化産業が全盛を迎えますが、その繁栄は芸術というよりは「産業」としてのものであり、画院は流れ作業的となり質が落ちたと…

一方で画家の個人的センスが光るようになり、画家がサインをするようになるのもこの頃なのですが。

では最盛期はいつか?本のページ数が示すとおり、2番のタフマースプ時代です。

先だって読んだ三日月の世紀のタフマースプ評はボロクソでしたが、美術史上に彼が占める位置は相当のものなのでしょう。ひいきしてるわけじゃないよ史実だよ(棒)

というわけで次回からは種本に基づき1~2の時代からやりたいと思います。

 

これだけではなんなので、美少年でも載せておきますね(唐突)

“Saki” Riza Abbasi, Iran, 1609 A.D.

酒姫(サーキィ)は好まれた題材のひとつです。イスラム教では女性が働くことが禁止されているため、宴会場での給仕を代わりに務めた美少年たちのことを指します。

お分かりでしょうが、少年愛の対象にされました。

よく酒姫は絵の中で絡まれたり見つめ合っていたり絡まれたりしています。

以前、地元でやっていた小規模なルーブル展に来ていた絵もそんなんで、一般客がガン見していました。彼らの脳内にはサファヴィー朝に対する誤ったイメージが植えつけられたことでしょう。

え?私?三周回って一般客の数倍はガン見してましたけど何か問題でも?

 

 

三日月の世紀

三日月(クレセント)の世紀―「大航海時代」のトルコ、イラン、インド 那谷 敏郎 新潮社、1990

をようやく読んでいるのですが(まだ途中)何これ面白すぎわろた

3帝国について分かりやすく書かれているうえに15世紀がいっぱい!すごい!

とりあえずウズン・ハサンが凄いことは分かりました。

オスマンがサファヴィーに食われている世界の歴史に比べるとバランスが良いね。

先日読んだアッバース本でよく分からなかったところが自動補完されました。

<以下、まったく参考にならない私的感想>

・白羊朝とサファヴィー家の関係すげー分かりやすい

・ウズン・ハサンかっこいい

・バーブルの挫折加減がやばい

・スレイマンは自重すべき

・タフマースプの評価が「卑怯」「欲張り」「無慈悲」

・アッバース絶賛 ↑と「正反対の性質」

・フマーユーンはちょっと手遅れ

・アッバース2世が優秀

ティムール朝の細密画

イラン細密画の直系の先祖?であるティムール朝の絵画について。

元々細密画とは小型の技巧的な絵画のことを指します。

当然ながら西洋にも東洋にもどこにだってあるものです。イスラム世界では写本の挿絵、彩色ページ、縁飾り…などの装飾として発展しました。

イランにおいてはイル=ハン国時代から中国絵画の影響を受けて発展したようです。それを受け継いだティムール朝絵画は、15世紀末、ヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷で最盛期に達します。

ちなみにヘラートは絵画だけでなく建築その他でも相当洗練されていたようで、ヘラート信者は多数存在するっぽいです。これについてはそのうち紹介できればいいなと思います(希望)

では実際に見てみましょう!

“ユースフの誘惑” BIHZAD, Yusef vlucht voor Zuleykha (Jozef en de vrouw van Potifar), 1488, Herat, Afghanistan

複雑に入り組んだ家の中で、美少年ユースフが自分が仕える家の主人の奥さんに迫られている場面を描いたものです。

べへザード(1455?~1536?)による有名な作品。彼はスルタン・フサインの庇護を受けて活躍したヘラート派の中心画家です。ヘラート美術院院長を務め、スルタンの死後はサファヴィー朝のシャー・イスマーイールにタブリーズに招かれて宮廷図書館長となります。タブリーズ派の基礎を築きました。

ヘラート派とかタブリーズ派とは細密画の画派のことです。京都画壇とか東京画壇のようなものでしょうか(適当)

ブリタニカによると、べへザードは「いきいきとした人物描写と自然主義的な風景を、豊かな色彩と調和させて情趣ある画面を構成し、中国的要素の少ないペルシア・ミニアチュールの作風を確立した」らしいです。

The construction of castle Khavarnaq (Arabic الخورنق) in al-Hira, c. 1494-1495 C.E.

城の建設現場を描いたもの。これを見ると確かに自然主義的かもしれないですね。労働者の姿が生き生きと描かれています。

バハザードの弟子にはアーガー・ミーラクなどがいるのですが、その話も後日書こうと思いますー。

えーと正直私は美術専攻でも史学専攻でもありませんので評価できるほどではないのですが、ティムール朝の時点でこんなに洗練されてるとは正直思わなかった()

恐るべしヘラート…。